虐待について

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

いよいよG20に伴う大規模な交通規制が始まってます。

大阪市在住の私としては、ただただ迷惑極まりない話です。

なんか警官がいっぱいいると嫌な気分になるし(無意識に後ろ暗いことがあるからかな)。

頼むからよそでやって。

 

ところが、周囲の人々の反応を窺うと、実に大人しいのですね。

仕事やプライベート含め、大いに迷惑をこうむっているはずなのに、ほとんど文句ひとつ言わない。

偉い人が決めたことだからしょうがない、という空気です。

ま、確かに私がぶうぶう言ったところで規制が解かれるわけではないですが。

 

唯々諾々。

これが国民性なのかもしれないし、学校教育の「成果」なのかもしれません。

 

今回はまた教育に関係する話です。

先日、親権者による児童への体罰禁止規定を盛り込んだ児童虐待防止法の改正案が成立しました。

子どもは叩いて矯正しないとまともな人間にならないと考えている人、体罰が禁止されたら子どもが「つけあがる」ことを懸念してる人、そもそもしつけと虐待の区別がついてない人。

そういう人々は、法律で体罰を禁止されることを苦々しく思っているでしょう。

 

体罰に対しての私の考えは過去に書いてます。

 

≫体罰について

 

読んでいただければわかる通り、私は体罰というものを認めていません。

あらゆる体罰は子どもの成長にとってマイナスだと思うからです。

そもそも「しつけ」ということに懐疑的です。

 

でも、だから体罰を法律で禁ずることに諸手を上げて賛成かと言うと、複雑な気持ちです。

子どもを産み、育てるという行為に対し、他人がくちばしを入れることに不快な気持ちがあるからです。

 

もちろん、実際に虐待され、人権を蹂躙され、助けを必要としながら声も上げることができない子どもたちは、「他人」の大人たちが自らくちばしを突っ込んで守らなければなりません。

そして現実問題として、救わなければならない子どもたちは大勢いるのです。

 

悲しいことですが「親になるべきでない親たち」は確かに存在します。

子どもたちは何よりもまずその親たち(彼らもまた救いを必要としている存在ですが)から守られなければなりません。

 

ですから、そのための「法」は必要には違いありません。

気を付けるべきなのは、国が個人を法で縛ることそのものが「いいこと」だと誤解しないことです。

 

子どもを産むという選択、産まないという選択。

いかに子どもと関わるかという選択、関わらないという選択。

それらは根本的には個人の自由に委ねるべき問題です。

 

「産め」「産むな」「こう育てろ」「こう育てるな」というすべての強制は本来されるべきではありません。

親と子どもを巡る数えきれないほどの悲劇や悲惨を認識した上で、それでもなお、です。

そうでなければ真に自由な人間を育てることにはならないからです。

 

人間は進み過ぎたり、現状に留まろうとしたりしながらも、「自由になること」を志向します。

私はそう考えています。

 

もう何度も繰り返してきたことですが、真に「自由になる」とは「本能のままに行動する」ことではありません。

人間には「本能に従わない自由」があり、「自らの信念や理想に基いて行動する」自由があります。

同時に「悪を行う自由」があり、危険な誤解を恐れずに言えば「虐待する自由」というものもあるのです。

 

自由の中で善を選び取ることに価値があるのです。

法律で禁止されてるから虐待を我慢するのではないのです。

 

虐待防止法が「今、現状」必要か? と問われれば「必要である」と答えます。

しかしそれが「未来に亘って永久的に」必要か? と問われれば「NO」です。

いずれはなくなるべきだし、なくなるでしょう。

 

同じ理由で、死刑制度も刑法そのものも、いずれはなくなると思います。

人類がその時代まで生き延びていれば、ですけど。

 

虐待をしてしまう親で(正直に申し上げてまったく同情心は湧かないんですが)最も哀しいのは、自分が幼い頃に虐待を受けた人間が、親になってから自分の子に虐待を繰り返すケースです。

 

子どもをどう育てるかはそれぞれの性質や環境によって様々です。

育児はどうすれば正解、という答えはなく、どこまでやればいいかも人によって違い、比べられるものではありません。

ですから、一つのテーマとしてですが、「自分が親からしてもらった以上のこと」が子どもに対してできれば、それでいいのかもしれないと考えています。

 

虐待を受けた人間が、虐待の連鎖を自分の代で断ち切れれば、それだけで素晴らしい価値のあることだと思います。

 

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【絵本の紹介】「ロッタちゃんとじてんしゃ」【323冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

はじめて自転車に乗れた日のことを覚えていますか?

私は今でもはっきり覚えてます。

息子は6歳に近い5歳ですが、まだ自転車には乗れません。

というか、自転車そのものがない。

 

公園なんかでよその子が小さい自転車(ペダルのないやつ。正式名称不明)に乗ってたりすると、息子は近づいて行ってちょっかいを出します。

ちょっと借りて練習させてみますが、練習嫌いの息子はすぐにやめてしまいます。

ちなみに、三輪車はあったけどまったくと言っていいくらい乗りませんでした。

何回教えてもペダルをうまく漕げないんですね。

それもあってずっと買わなかったんですが、そろそろ買ってやろうかしら。

 

今回紹介するのはスウェーデンの世界的児童文学者・リンドグレーンさんの「ロッタちゃん」シリーズより、「ロッタちゃんとじてんしゃ」です。

作:アストリッド・リンドグレーン

絵:イロン・ヴィークランド

訳:山室静

出版社:偕成社

発行日:1976年4月

 

リンドグレーンさんは「長くつ下のピッピ」という人気シリーズの作者でもあります。

この前、「長くつ下のピッピ展」に行ってきました。

 

これは絵本ではなくて児童書なんですが、息子に読んでやると大ハマリして、今でもお気に入りの作品です。

「ピッピ」の魅力(世界一強くて、大金持ちで、一人暮らしで、学校にも行かない)を語り出したら長くなり過ぎるので、ここでは触れません。

一度読んでみて欲しいと思います。

 

「ロッタちゃん」はピッピのような超人ではなく、ごく普通の幼児なんですが、その言動の痛快さはピッピにも劣らないものがあります。

 

兄のヨナスと姉のマリヤが自転車に乗っているのを見て、三輪車しか持ってないロッタは内心腹立たしくてなりません。

自分も同じように自転車に乗りたい、乗れるはずだ、と考えます。

でも、周りからは「おまえは ちいさすぎるからな」と言われてしまうのです。

自尊心の強いロッタは、実に良からぬ計画を企てます。

お気に入りの「ぶたぐま」のぬいぐるみ「バムセ」にだけはその計画を打ち明けます。

 

あたい、一だい かっぱらうつもりよ

 

どこでかっぱらうつもりかというと、仲のいい「ベルイおばさん」の物置からです。

そこに古い自転車があることをロッタは知っていたのです。

 

5歳の誕生日の日、やっぱり自転車はもらえなかったロッタはベルイおばさんの家に行きます。

ベルイおばさんからは素敵な腕輪をプレゼントされます。

ロッタは喜びますが、それはそれとして計画は実行に移すのでした。

ベルイおばさんが昼寝してる隙に、ロッタは自転車を盗み出します。

大きすぎる自転車に四苦八苦しますが、どうにかサドルにまたがります。

 

しかし、坂道を走り出した自転車を止めることができず、ロッタはベルイおばさんの家の垣根に突っ込んで怪我をしてしまいます。

あたいの たんじょうびなのに ちが でたあー!

 

ベルイおばさんに手当してもらいながら、ロッタは、

でも あたい、ほんの ちょっとのあいだ ぬすんだだけよ

と言い訳。

 

そしてせっかくもらった腕輪まで失くしてしまったことに気づいて、泣きわめきながら帰ります。

兄さんと姉さんから説教されて、ロッタは「あんたたちには くちを きくのも いやよ」とふくれっ面。

 

やがて父親が帰ってきますが、彼はロッタにぴったりの小さな赤い自転車を持って帰ってきてくれたのです。

大喜びで自転車に乗るロッタ。

そしてベルイおばさんは腕輪を見つけてくれます。

 

ご機嫌で自転車を乗り回すロッタですが、兄の真似をして両手を放して転び、兄に対して怒ります。

でも内心では、自分だって同じように手を放して乗れるはずだ、とロッタは考えているのでした。

 

★      ★      ★

 

花びらが舞う絵が印象的です。

「ピッピ」も「ロッタ」もリンドグレーンさんの描く主人公は、子どもでありながら大人の世界に堂々と立ち向かい、自己主張をし、思うままに行動します。

 

もちろん子どもですから、彼女らの行動と主張は大いに自己中心的です。

理屈や道徳ではなく、子どもたちは自分の中にある何かを守ろうと抵抗します。

禁止し、矯正し、従わせ、コントロールしようとするすべての大人たちに対し、子どもたちは抵抗します。

 

リンドグレーンさんはそんな子どもたちを、一人の人間として認め、その幼い自尊心を傷つけないように心を配ります。

大人にとって都合のいい「いい子」しか出てこないような物語を、子どもたちはその鋭い感性ではねのけます。

 

ロッタの行動は、良識的な大人が見れば眉をひそめるようなところもあります。

それでも、今すぐにその行動の道徳的良否を教え込むことが必要なのではありません。

何故なら、子どもたちは平気でこれまでの自分を超えていけるからです。

 

これでも おまえは、きょうは いやな たんじょうびだって、おもうかい?

という兄の質問に、ロッタはあっさりと、

あら そんなこと、あたい おもったこと ないわよ

と言い返せるのです。

 

過去の行いに罪悪感を抱かせることで子どもたちを「教育」することは意味がありません。

彼らはいつでも「今、ここ」を生きているからです。

 

「ロッタちゃん」シリーズは映像化されています。

ロッタ役の女の子がめちゃくちゃに可愛いので、必見です。

特にふくれっ面が。

 

推奨年齢:4歳〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆☆

庭のブランコ羨ましい度:☆☆☆☆☆

 

■今回紹介した絵本の購入はこちらからどうぞ→「ロッタちゃんとじてんしゃ

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【絵本の紹介】「だいちゃんとうみ」【322冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

今回紹介するのは、太田大八さんの「だいちゃんとうみ」です。

作・絵:太田大八

出版社:福音館書店

発行日:1979年8月1日(こどものとも傑作集)

 

海辺の村での夏休みの思い出を素朴に描いた作品です。

特に大きな事件が起こるわけではないのですが、非常に印象に残るロングセラー絵本です。

 

舞台となっている長崎県大村町は、太田さんが子どもの頃育った土地であり、主人公の「だいちゃん」は作者自身だと思われます。

見返しに大村町周辺の地図が描かれています。

 

私の父親は瀬戸内海の小さな島の出身で、私が子どもの頃には毎年夏休みと正月に里帰りしていました。

この絵本に描かれている海の情景は、そのまま私自身の記憶と重なる部分が多く、色々と思い出させてくれました。

 

だいちゃんはいとこの「こうちゃん」の家に遊びに来ています。

川で釣りの餌にするための川エビを掬い、こうちゃんのお兄さんの船で沖釣りに出ます。

てぼ」「そうけ」「みな」といった耳慣れない単語が出てきます。

お昼になると浜辺で潜ったり泳いだりしながら貝を集め、釣った魚と一緒にお昼ご飯。

帰り道では竹を切って「すぎでっぽう」を作り、くすのきの上に作ったやぐらに上ります。

海の色の変化、潮の香り、風の感触までが伝わってきます。

 

★      ★      ★

 

舟に乗って沖釣り、私もしました。

祖父母が他界してからは田舎に帰ることもなくなり、夏の海の光景も長い間忘れていました。

 

今、大阪に住んでいる私には帰る田舎もありませんし、息子を連れて行くこともできません。

でも、田舎での遊びや暮らしは、息子にも体験させてやりたい気がします。

 

現代の都会では、子どもが遊ぶところは本当に少なくなっています。

どこへ入るにも入場料がかかります。

海や山、自然の中での遊びは無料で、しかも様々な学びがあり、面白いものです。

 

本来学びとはすべて遊びの中にあるのです。

ちゃんと遊ぶことのできなかった子どもたちは、大人になっても遊び方がわからないままです。

そういう大人は子どもと遊べないのです。

お金を払わないで楽しむ方法がわからないのです。

 

あまり昔を懐かしむのは趣味ではないんですが、こんな絵本を読むとついノスタルジックな気分になってしまいますね。

 

推奨年齢:4歳〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆

精神的豊かさ度:☆☆☆☆☆

 

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【絵本の紹介】「たまご」【321冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

無限の解釈可能性を内包した絵本というものは数多くあります。

余分な表現を削っていく作業の末に、そうした作品が生まれます。

 

無意味なカット、冗長なテキストを切り捨てた末に、文そのものを失くし、物語の核だけを残した絵本。

それが今回紹介するガブリエル・バンサンさんの「たまご」(L’OEUF)です。

作・絵:ガブリエル・バンサン

出版社:ブックローン出版

発行日:1986年10月20日

 

前述した通り、この作品にはテキストが存在しません。

絵を読むことによってのみ物語に入っていくことができます。

 

同作者による同じ形式の絵本「アンジュール ある犬の物語」を以前に取り上げました。

 

≫絵本の紹介「アンジュール ある犬の物語」

 

あちらは鉛筆画、この「たまご」は木炭画という違いはありますが、どちらもテキストが無く、色が無く、そして音すら消し去ってしまったような絵本です。

そして、一応ストーリーが明確だった「アンジュール」に比べ、「たまご」は非常に謎に包まれた物語になっており、「難しい絵」が連続します。

注意深く読まなければ、そして注意深く読んでいるつもりでも、展開について行けなくなります。

 

海辺、あるいは砂漠、あるいは荒野のような広大な地に、ひとつの巨大なたまご。

一人の人間が発見し、たくさんの人を呼んできます。

やがてたまごを取り囲むようにビルや建物が建設され、たまごの外郭には階段やスロープが取り付けられ、頂上には旗がひるがえり、ロープウェーが開通し、まるでテーマパークのような賑わいを見せます。

が、嵐がやってきて、人間が作ったものはすべて破壊されます。

その後、巨大な猛禽が飛来し、人々は逃げ惑います。

巨鳥はたまごの親らしく、たまごを温めるような素振りを見せますが、やがて飛び去って行きます。

たまごは孵化し、雛が這い出してきます。

 

人間は戦車隊を出動させ、この雛を撃ち殺してしまいます。

恐れ、不安、罪悪感……様々に読み取れる虚ろな表情をした群衆。

死んだ雛は車で引きずられ、巨大な十字架に磔にされます。

 

そこへあの巨鳥が、今度は何羽も飛んできます。

巨鳥の群れは人間を襲うでもなく、それぞれたまごを産み落とし、人間に(そして読者に)意味深な鋭い眼差しを向けると、飛び去って行きます。

後にはいくつもの巨大なたまごだけが残ります。

 

★      ★      ★

 

モノクロの木炭画、そして意図された静寂。

どこか不安な気持ちを煽るような、不可解な物語です。

 

中盤まではまあ、わりとよくあるパターンとして読めるのですが、雛が孵ったところからラストシーンにかけては、こちらの予想を超えた展開が広がります。

 

たまごに群がる愚かな群衆、そして自然の代表たる巨鳥。

いわゆる「自然対人類」「高度文明社への警鐘」の物語として読んでいると、ラストで首をひねらざるを得なくなります。

 

何故なら、「愚かな人間ども」に対し、巨鳥は何も手出しをしないからです。

雛を殺された復讐をするわけでもなく、ただ本能に従って次々にたまごを産む巨鳥。

そのたまごからまた雛が孵ったら、今度は人々はどうするのでしょうか。

最後の巨鳥の鋭い視線には、試すような光も見えます。

 

何よりも違和感を覚えるのは、撃ち殺した雛を「磔刑」にするシーンです。

雛を恐怖心から射殺したとしても、わざわざ巨大な十字架まで用意して磔にする必然性が理解できません。

明らかに作者は何らかのメッセージを込めてこのカットを描いています。

 

我々日本人には少々馴染みが薄いとは言え、「磔刑」から連想されるものと言えば「ゴルゴダの丘」における聖人の磔です。

「供犠」の概念です。

 

これは本当に私の個人的な解釈ですが、「たまご」とは未来の人類意識の萌芽ではないかと思います。

私たちは現在の自分の思考方法の正しさを信じて疑いません。

しかし、ごく短い歴史を繙いてもすぐわかるように、時代が変われば考え方も常識も、何もかもが変化します。

 

まだ理解できない崇高な思想や科学を前にしたとき、人間は「たまご」の外郭のみを見て、未知なるものを自分たちにも理解の及ぶ「俗」のレベルに引きずり降ろそうとします。

「たまご」から「孵化したもの」は、それらの「現在の段階に留まろうとする」人々によって犠牲になります。

しかし、好む好まざるに係わらず、「磔」にされたものを見上げる人々の意識の中には、必ず何かが流れ込むのです。

「孵化したもの」は、いわばそのために供犠として捧げられるのです。

 

次々と生まれ、成長する前に死んでいく「雛」たちに、私たちは何を思うのでしょうか。

 

推奨年齢:5歳〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆☆☆(テキストなし)

解釈が分かれる度:☆☆☆☆☆

 

■今回紹介した絵本の購入はこちらからどうぞ→「たまご

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【絵本の紹介】「あまがさ」【320冊目】

 

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。

 

梅雨入りして、今年もじめじめした季節がきました。

ああ、うっとうしい……と不機嫌になる前に、こんな絵本を読んでみてはいかがでしょう。

 

あまがさ」。

作・絵:八島太郎

出版社:福音館書店

発行日:1963年8月25日

 

1960年代から増刷され続けているロングセラー。

今もって色あせない、眩しい光を放つ絵。

 

主人公の「モモ」は、三歳の女の子。

両親とも日本人ですが、ニューヨークに住んでいます。

 

誕生日にもらった赤い雨傘と長靴を早く使いたくてそわそわしています。

ところがあいにく天気のいい日が続き、なかなかモモは傘をさすことができません。

やっと雨が降った時、モモは慌てて長靴を履き、傘をもって外へ飛び出します。

 

ニューヨークのにぎやかな通りを、モモは大人になった気分で歩きます。

雨傘の上では雨が、聞いたこともない不思議な音楽を奏でていました。

幼稚園に行っても、モモは外の雨を見ていました。

 

帰り道も、来た道と同じテキストと絵で物語られます。

今では大人になったモモは、この時のことを覚えていません。

おぼえていても いなくても、これは、モモが うまれて はじめて あまがさを さした ひだったのです

 

★      ★      ★

 

子どもにとって、雨はわくわくするようなイベントです。

子どもはいつも何かが起こることを待ち望んでいます。

私たちにもそんな瑞々しい感性があったことを思い出させてくれる絵本です。

 

海外で暮らす日本人という設定は、海外旅行が一般的でない当時としては非常にモダンで、見返しや本文に描かれたニューヨークの街並みは、子どもたちに異国への憧れを生じさせたと思われます。

 

作者の八島太郎さんは実際にニューヨークに渡って活躍し、この「あまがさ」は「Umbrella」としてアメリカで発表され、コールデコット賞次席となった作品です。

華々しい経歴のように見えますが、八島さんは日本の軍国主義に反対したため10回にもわたって投獄されているのです。

 

第二次世界大戦時には、命の重要さを説き、日本兵に投降を呼びかけるビラを製作したことでも知られています。

当時としてはそうした行為は「非国民」扱いされ、非常な勇気のいることだったはずです。

 

八島さんの絵と作品、そして生き様は、戦後の日本絵本界を担った作家や編集者たちに多大な影響を与えました。

彼の絵に込められているのは、厳しい環境の中で、それでも平和を祈り続けた力です。

 

現代の絵本にそうした魂を揺さぶるような力があるかと言えば、とてもないでしょう。

それが悪いことだとは言いません。

芸術はすべて時代の中から生み出され、時代の影響を受けるものです。

 

しかし、それぞれの時代に生み出された絵本を読むとき、その時代そのものを感じ、考え、次世代に残していくことは大切な作業だと思います。

 

推奨年齢:3歳〜

読み聞かせ難易度:☆☆☆

モダン度:☆☆☆☆☆

 

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